村上隆「芸術闘争論」
何というか目から鱗でオススメです。
一部抜粋
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なぜ日本の人たちが、現代美術が嫌い、現代美術がわからないと言うかというと、わざわざコンテクストを知的に理解しなければならないアートなんてアートではないと思っているからです。アートというものはそういう高尚ぶったお勉強のできる人のものではなくて、誰にでもわかる="自由なもの"であるべきだと、皆思っているのですね。「アートは自由に理解するべきだ」これはほとんど信仰に近いものがあります。
みなさんは「マンガはコンテクストなど理解せずに、自由に見て楽しめるからいい」と思っているかもしれませんが、実は外国人にとってマンガほどハイコンテクストで、ハードルの高い文法を持った芸術はありません。
かなり以前、ぼくが自分で学校みたいなものを作るということも考えたことがあります。けれど、日本人は一度お金を払ったら客であるという発想が強すぎて、「教育現場」を造れる大前提がセットされていないことを実感しています。その「客意識」は過剰といってもいい。だから、金を払っている大学生諸君は、お客さんなので学校に誠意を発揮されて当然だと思っている。お客さんである以上、すべての大学生はフラットに平等に扱われなければいけなくて、才能ある学生を捕まえて先生が才能を引き出したりするのは不公平なわけです。こんなことが当たり前になってしまっている環境で、学校をやりたいとは思わなくなりました。
評論家の竹熊健太郎さんは、京都精華大学でマンガを教えてらっしゃいますが、竹熊さんは、お金をあげる学校をやろうと思っている、といわれています。それはウォルト・ディズニーが創業してすぐに作り出した学校と同じだと言います。給料をあげてその中で運営していく。今もピクサー・アニメーション・スタジオなんかにもありますよね。ピクサー・アカデミー。会社内に学校がある。それはぼくはありだと思います。
昔だったら、パリやサロンというのがあって、カフェなどでもアーティスト同士が啓発しあったわけです。やはり、一個人でいけるところには限界があります。複数の人間で啓発しあわなければいけないと思います。
アーティストが自分の芸術的なものを引っ張り出そうと思うのなら、どうか日本式自由神話から脱出してください。
イギリスとアメリカのアートというのは政治的に造られたフシがあります。芸術というのは常に政治的なものです。
芸術というのは生き残った結果そのものです。生存確率の低い、しかし奇跡的に生き残った遺伝子を持ったものが芸術作品であり、芸術家です。それ以上でもそれ以下でもない。ぼくたち芸術家は美を社会に、歴史に刻印するためだけに生きています。たとえその美が社会の規範からズレていようが、美に足るか否かは未来への時間のみが査定していくだけです。
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村上隆さんは東京芸術大学大学院日本画科で
初めての博士号取得者。
冒頭の母乳で縄跳びする少女の作品『ヒロポン』の評価を
岡田斗司夫さんに尋ねるも酷評される。
しかし岡田さんはこうもおっしゃっています。
「この人は歴史に名が残ることは決まった作家」と。